山の向こうの海に言い伝えられる神話があり、それを信じる子どもがいた。
#ゆっきゅんミスiD2017日記 6/21-27
セミセミファイナリスト時代の日々の記録です。
6/21
最寄りの改札まで急いで、財布を忘れたと気づき、ゆっくりと家まで戻り、ゆっくりと大学へ向かったので、出席やめて映画を見た。
万田邦敏『接吻』(2007)。なんの楽しみもなく生きていた女性会社員(小池栄子)が、テレビニュースで見つけた殺人鬼(豊川悦司)の表情に強烈に惹かれ、接近していく。彼の気持ちをわかってあげられるのは私しかいなくて、私の気持ちをわかってくれるのは彼しかいないという確信があった。私はあなただから、あなたも私になってほしかった。しかし彼らが言葉を交わす面会室にはいつだって一枚のガラスによる隔たりがあった。彼女と彼はひとつにはならない、そう宣告された。その絶望と怒りは、隔たりのない一つの空間で出会うこととなった衝撃(と評される)のラストシーンへとつながっていく。恋って障壁なしには成り立たなくて、壁取っ払ったら、死ぬんだ。
小手鞠るいを読んで鬱になったという理由で授業に出なかった友人とカラオケへ行き、「男」「十戒」「好き 好き 好き」を歌った。
6/22
夜になるまでなんにもできず、今日はこれをやったというのがなく一日が終わることへの恐怖から、レイトショーへ向かう。黒沢清監督の新作『クリーピー』を見た。元刑事の犯罪心理学者・高倉(西島秀俊)と妻・康子(竹内結子)が新居に引っ越してきたら、隣人の西野(香川照之)とその娘らしき女の子の感じがなんかめちゃ不審で、高倉は未解決の一家殺人事件を調べていく中で西野絶対これやばいのでは?となっていく、サスペンスというかもはやホラーだった。初登場シーンからサイコパス西野が怖すぎて、その庭に吹き抜ける風は不穏で不吉、全ての悪夢の予兆だった。途中から普通にただずっと怯えていた。主婦の言葉にならない鬱憤をミキサー(グリーンスムージーですか?)のゴリゴリ音に委ねているのが、よかったな。
そのあと、深夜のファミレスで溺れるナイフを読んだ。11月に公開される映画溺れるナイフは山戸結希監督作品でありなおかつ小松菜奈さん菅田将暉さんなおかつジョージ朝倉さんが原作という、夢のような事件なのだけど、実は溺れるナイフ最後まで読んでいなくてやっと読んだ。恋の海に突き落とされたが最後、君は永遠に抗えない光で、全てだった。どうしたって痛みが残る。大森靖子さんの歌を聞きながら読んだら親和性高かかった。パーティードレスとか
6/23
朝から自分のせいで最悪の気分だったところ、デザイナーハルヒちゃんと新宿の純喫茶らんぶるで近況を報告し合って撮影することによって元気になったが、電車に乗っていたら最悪に引き戻され、もうダメだとなり、目的地黄金町駅に到着即ノートにボールペンで殴り書いた「2016年6月23日の最悪構成要素」は30を超えていた。読み返すと構成要素(18)リュックの中身が出しづらい に打消線が引かれているけど全く記憶にない。ていうか最悪が弱い。
もうダメだってなるたびにiPhoneのメモか手書きのメモに今自分が抱えていることを全部書く。ぼくがもうダメだのときはもうダメなことが重なっていたり散らばっていたり、とにかく多く存在していて、何かよくわからないまま大きなダメだを背負っても、進まない。得体の知れない不安こそ怖いから、ひとつひとつを見る。それだけでも心が少し整理されて前を向ける感じがする。
沈んだ気分はナルコちゃんに会って全回復した。個展会場のメンテナンスを手伝い、しばらく歩いて坂を上るとヤギがいた。ヤギの散歩をして、またかなり歩いて馬車道の紅茶専門店サモアールに行った。なじみのない土地で何十分も歩き、身体が疲れたのが超よかった。ちなみにはじめて散歩した動物がヤギです。
6/24
海と映画と恋人たちの関係を思索するにあたり、再び見たくなったのは呉美保『そこのみにて光輝く』。池脇千鶴が好き、ジョゼもきみはいい子も。この作品では幸せなんてとっくに諦めた女性の瞳、身体、髪の毛一本一本の美しさと重みに唸る。
恋人たちが海に投げ込まれるシーンになぜこんなにも強く心を掴まれるのかといえば、それが映画の喜びそのものだからだろう。映画の魅力の一つとして、カメラを回せば人間の作為を超えたものがどうしても映ってしまうということがある。海を操ることなんて誰にもできない。それは絶えず回り続ける世界への愛であり、意識の解放、肯定である。海に浮かぶ綾野剛と池脇千鶴はすがるようにキスをする。自分の力ではどうにもできない苦しみを抱えて生きている二人が、人間の支配を超えた場所に身体を浮かべて愛を求めるというのは、この作品の象徴ではないか。絶望に次ぐ絶望に差せる光は、愛しかないのだった。死にたくなったらこの映画を見よう。
6/25
シャンソン歌手のような恰好をして、「シバノソウ×さぃもん×ゆっきゅんの不思議な夜」へ向かう。高円寺のマカロニックという洋服屋兼バーで一日店長をさせてもらった。ミスiDの話になり、色んな人から色んな話を聞いて思ったのは、狭い話にしたくないなということだった。クラスで一番頭がよかったあの子は、クラスで一番になることを目指していなかった。大学生だからできることなんて、今すぐやめなさい。ミスiDの中で物事を考えるのは、ぼくは危険だと思った。「レヴィナス、あなたのまっさらな頬を傷つけるのは私でありたい」と述べた山戸結希監督のようでありたい。意識だけでも、宇宙まで突き抜けていたい。
6/26
母親が東京に来たのに、小中学生ラップユニットのライブへ向かっていた。あー可愛い。その後母親に会って、『きみはいい子』という映画を薦めた。小学生と、小学校教師と、虐待をしてしまう母親と、アスペルガーの子どもを持つ母親のそれぞれの孤独を丁寧に描いた映画だ。母親は自分の事を話さないから、すべての苦しみをわかってあげることなんてできないけど、つらいことがあるのはわかる。それを1人で抱えることが正しいのだと思っているのもわかる。そんなことないのに自分はダメな人間だと思い続けている。誰だって抱きしめられたいときがあって、肯定してくれる人がいれば大丈夫なときがあって、でもそういう話できないから映画薦めといた。見てくれるといいな、あと自分のグッズあげた。
6/27
アイドルを見るとこんなに感情が動いて、相手も人間なのに、人間関係が成り立たないから楽なんだなと、自分で言って悲しくなった。
おしまい
#ゆっきゅんミスiD2017日記 6/14-6/20
二次審査を終えてセミファイナリストの発表を待つだけの私の特にミスiD関連のことは何もなかった一週間の記録だ。しかも当日に書いてない。
6/14
全然小説を読まずに21年生きてきてしまったなという思いがあり、後悔というわけではないし今から読めばいいのだが、子どもの頃児童文学に親しんでいた人って共通の世界に対する純粋さみたいなものがあると感じていて、当然僕にはないもので、それは読んでいたから身についたものではなく先天的にその心があるから親しんでいたということなのかもしれないけれども、なんだか少し憧れてしまうのだった。他人に憧れている場合ではないのに。恋愛小説の文庫本を購入した。
6/15
アルバイト先に届いたananの占い特集を読む。占いはトークテーマとして楽しむ/人生相談くらいに考えているのですぐ忘れる。10パターンくらいある占いをすべて試してみて、星座占いなどよりも生年月日を足したり引いたりして見づらい表で数字を導き出した占いのほうが、当たってると思える確率が高かったのは、少しでも手間をかけたからでしょうか。鏡リュウジの「日付+いま思い浮かぶ数字」という占いでは女神から”欲しいものは戦わずして得られない”というメッセージが届いた。ミスiDに応募したこと、女神にバレている。女神曰く今まさに攻め時だそうですので、がんばらせてください
6/16
友人のペニスアーティスト、増田ぴろよさんとともに別冊根本宗子 第5号「バー公演じゃないです。」を見に行った。根本さんの演劇は、ぼくたちの身に覚えのある笑えない話をエンターテインメントに昇華してくれるのがすごいところだ。今回の公演だって何度も声を出して笑ったけれど、あ、これ、笑えな…ハ、ハハともなった。時が経ち、環境が変わり、それでもつきまとってくるのは自分の罪の記憶。誰に何を言われなくても自分のことを許さない(と思い込んでいる)人物が自分を嘲笑う姿が、自分よりも輝いている姿が目に浮かんでしまう。自分の過去が他人の人生に影響を与えている、あいつは今も自分の事を考えているなどと思うのは、全く自意識過剰である。ひどく共感する。ずっと苦しめられてきた主人公は、遠い記憶からどんどん離れて自分の中で作り上げられたその人物に謝りたいと望む。何のためかといえば自分のためだ。そうだ、謝罪はいつだって自分を許すための行動であった。結局その人物は自分の想像でしかなく、現実とはまるで異なるものということが発覚し、笑えるラストが待っていた。ありがとうございました。
6/17
ファンレターなんて書いた事がない。読む専門だった。読むのは大好きです、全て保管しています、読み返しています、いつもありがとう。しかし自分のことを知らない人に向けてその人への思いを書くということ、それは手紙に記した言葉でしか自分を知られ得ないということ。この度相手は子どもですから、ポエムを書いても仕方がありません。ていうか体育しか好きじゃない小4が読める漢字って一体どこまで?なにも書けないまま、ドトールは閉店時間を迎えていた。
6/18
応援させていただいている男の子たちの大事なライブが開催されるので早起きして渋谷へ。小学生を見て可愛いと言っている地点は安全で、かっこいいと思いだしたら試合開始。全敗のぼくを笑い飛ばしてください。ところで、歌って踊る男の子たちを応援するのは自分にとって愛のレッスンである。昨年、ある若手俳優に執着し、理想像を作って自分と重ね、狂った夢を見ていた。その夢が現実ではないということに気づいたとき、心は崩れた。あまりにも勝手だった。幻滅という心の反応はもうしたくないの(実は超楽しいけど…)。はあ、本当に好きだったのは君自身ではなく、自分の中の君でした。大変失礼いたしました。そんなわけでぼくは今後、人が、その人自身であることを、そのまま応援するということをしていきたい。自分以外への愛の存在があるか、あるいは生まれていくのか。しかしながらその対象がアイドルでしかないという点が、ぼくの弱さなのでした。ライブは一挙一動が最高でした。
6/19
理性がない。理性がない。昨日のライブに出ていて初めて見て好きになってしまった別のグループのイベントがあり、疲れたし寝坊するだろうし軽率すぎるから行かないと思っていたのに間に合う時間に起きてしまったぼく、千葉県に到着していた。中学二年生、男の別れ道に立った美しい君は「右の前の方で見てくれてましたよね」と言った。まさか、ぼくが金髪にした意味はここにあったのか。金髪であること自体が認知厨のようで恥ずかしい気持ちになったが、ありがたくひれ伏した。写真を撮るとき、どうかハートマークを作らないでほしい、心臓を象らないでほしい、やめて、人類皆の心拍が止まる。
先週ミスiD審査で緊張していたから、大事な箍が外れてしまったような今週、解放にもほどがある週末。ありあまる生命力をもって、ベッド・インさんのワンマン○おギグへ向かった。ベッド・インさんはすげえ躁の力がある。全ての発言が面白い。かっこいい音しか鳴らさない。かっこよすぎる。誰よりも本人たちが楽しくてやっているというのが最高。何年も活動をしていらっしゃるのに、ぼくの大好きな「期間限定スペシャルユニット感」が永遠に持続している。幸せ。いつか共演できるようにがんばりたい。
6/20
浜崎あゆみさんの新曲『FLOWER』のMV Short versionが公開されていた。「目を閉じて浮かんだのは これまでの歩んだ道」という歌い出しに痺れる。まじか、J-POPにおいて目を閉じて浮かぶのは愛する君の姿じゃねえのかよ。これは私の体感でしかないが、浜崎さんの書く詞に確かな体温を感じるのは自分を語るときだけだ。君への思いを語るよりも、自己をひたすらに内省するとき、彼女の言葉は宝石になる。君=僕の場合もかなりあるので要注意。「花になって棘を持って枯れて散って朽ち果てたい 拾わないで離れてって忘れてって」「鳥になって風に乗ってあの場所を目指したい 痛みもない愛もない向こう側へ」と、サビで歌われる叫びを聞いて、ついに死にたいが出た、と思った。浜崎さんが限界なんてとっくに超えていること、それでも死なない、死ねないことを僕たちは知っている。浜崎さんのことを思うと語りが祈りに近づいてしまうね。今日も美しくてかっこいいです。
#ゆっきゅんミスiD2017日記 6/7-6/13
6/7
#ゆっきゅんミスiD2017日記 5/31-6/6
2016-5-22くらい
1人で自分をやること①
BOYFRIENDというZINE、解説とかなくかわいいかっこいいとかで楽しんでもらいたかったのであんまり言ってこなかったんですが、やっぱり言っとく。と、それ以降いまの自分について。
どっちも表紙でどっちもBOY、半分ずつ違う衣装を身に纏ったゆっきゅんが同じデートコースをゆく。表紙が朝で真ん中は夜。ゆっきゅんとデートしているようにも見えるけど、真ん中のページ、夜の観覧車で向き合っているのはゆっきゅんとゆっきゅんで、結局自分と向き合っているだけといういつものオチだね。
年末に発表した「夢じゃない」では当時の自分自身の感情や欲望と向き合って、男子高校生の格好をするのも、振袖やウェディングドレスを着るのだって、全てが自分で、僕には夢なんかじゃないということを宣言した。自分のために超必要な作業で、色んな自分に出会えて新しい場所に行けたなと思った。
そのあと、夢じゃないを見ていて、戦意むきだしの目が怖いなと思って今度は距離感の近い朗らかなZINEをつくろうと思って作ったのがBOYFRIEND。
距離感が近いといえば恋人でしょう、デートなんてしないけどそういうことに挑戦しようと思った。メンノン男子大学生ゆっきゅん(普段のゆっきゅんとは遠い)とかわいい服を着た男の子ゆっきゅん。二人の関係性と個人の設定はゆっくり時間をかけて考えた。2月は坂口健太郎さんに心酔していたので、1週間でメンズノンノの坂口健太郎さん表紙号を集めるなどの芸当をして、理想の男子大学生の設定としては大学の哲学科でどんな音楽が好きで自意識とかなくて、みたいな。かわいい方のゆっきゅんは楽に考えられたけど、理想の男子大学生、ぼくだって男子大学生なのに、その要素すら他者でしかないことに気付いて心を痛めたりした。大学生の服は持ってないからシャツもパンツも靴も買った。だからコスプレです。マジの自分の虚像をつくりあげてそれに恋しようとしていたそれは病気だと思う。
先にそのメンノンボーイの撮影をした。自意識が指先まで行き届いてしまっているぼくはアイスをどうがんばっても可愛く食べてしまうので大変だった。足、ひじの開き方、手、どれも力と意識を抜くのがかっこよさなのか…と学んだ。(少年アヤさんの著書にもこんなことが書いてあった気がする。)イケメンに関する知識が尋常ではないフォトグラファー梅谷英恵さんと撮影するのは有意義で楽しかった。別日、かわいい方も難なくたのしく撮影した。出来上がった写真を見て、男子大学生になれたなと思った。
夢じゃないを作ったあとに気づいたのは、ウェディングドレスやロリータを着てる写真は自分自身の意志が強く写真に現れているということと、男子高校生と美少年の写真は擬態でしかないということだった。自分はそれにもなれるけど、それはなりたい自分であって、自分の中にあるものではなかった。BOYFRIENDでも同じで、男子大学生の自分は自分だけど、自分から出てきたものではなかった。
ぼくは前からポップアイコンになりたいと公言していて、なんだそれはと思っている人もいるかもしれない。僕は既成の社会的性別から見ればいびつで、見づらいだろうしわからないだろうし、困惑する人もたくさんいるのは知っている。誤解されるし変な質問をされるからジェンダーがどうのということを発言することもあるけど、それは必要に迫られてしているだけという感じで、僕の仕事は社会活動じゃない。「男性なのに○○」みたいな切り口を、ポップに可愛く美しく気高く超えていきたい。そのためには「ゆっきゅん」というある程度定まったイメージが必要なのに、いまのゆっきゅんはバラバラに拡散してしまっているということに、ようやく気付いた。セーラー服を着ていたころ(そんな時代がありました)はわかりやすかったなーとも思った。
明日(たぶん)につづく。