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自分

ゆっきゅんオフィシャルブログだよ

山戸結希『おとぎ話みたい』が超大好きって話

 
 私が上京して初めて東京で観た映画は山戸結希監督『5つ数えれば君の夢』だ。映画においてその場所が東京であることを示すのに最も映されているであろう渋谷のスクランブル交差点の雑踏を抜けて、グーグルマップの向きを何度も変えたりしながら、これが東京のセンター街か、これがスペイン坂…?あ、パルコだ。と振り返ってたどり着いたのが今は閉館してしまったシネマライズだった。こんなは映画は見たことがない、これが見たかったとひとり大興奮し、帰りにノートを買って感想を書き殴ったことを思い出せる。
 山戸結希監督の存在を知ったのは高校生のときにTwitterで、たしか批評家の中森明夫さんが褒めちぎっているのを見たときだった。予告編とインタビューと関連ツイートをむさぼるように見た、それはまるで新見先生に貫かれた高崎しほのようだったかもしれない。けれども悲しいかなここは地方都市岡山、『あの娘が海辺で踊ってる』『おとぎ話みたい』はもちろん上映されることはなく、DVD化もされていなかったのだから、一刻も早く東京に行ってその光を見たいという思いが募るばかりの2013年を過ごしたのだった。あなたに会いにここまで来たのですよ、と東京の暗闇に着いたときの心の中。
 
 東京に焦がれて上京した者にとって『おとぎ話みたい』は特別な作品にならないはずがなく、2014年の冬にテアトル新宿で二度、2015年の大晦日(ここが一番自分の中では印象深かった)、2016年の上映、DVDで何十回も観た。世界一好きな監督の、大好きな作品。あなたはきっと、これは私の映画だって言いたくなるでしょうね。好きすぎて大学の映画研究ゼミで自分なりに発表したので、それを書きます。 
 
 
 
♡おとぎ話みたいを構成するもの
 
 まずは文学。「どうしようと思ったときには心はいつもどうしようもなく、足りないと思うということはかつて満ち足りていたという証左に他ならないのだが…」冒頭からやや難解とも思えるモノローグに始まり、その後も少女は詩的で哲学的な大量のモノローグと台詞を奔流し続ける。ハマる人そうでない人はっきりと分かれるだろうと思うが無論私は前者だった。身に覚えのある感情が、けれども自分の中にはなかった言葉で饒舌に語られるその新しい感覚に、浸り続けることになる。
 
 次に、音楽。この作品を見て驚くのは、地方の高校で展開されるドラマの場面と同時並行でおとぎ話のライブ映像が流されていることだ。ライブの中で高崎しほはおとぎ話のバックダンサーの一人としてライブハウスで踊っている。これは上京後のしほとおとぎ話先輩の姿だと素直に解釈できる・『おとぎ話みたい』は音楽映画祭MOOSIC LAB2013の企画で制作されたのだから納得だが、それにしても全編ほとんどの場面で音楽が流れている。しかし物語と連動しながら流れ続ける音楽は映画の邪魔をすることは決してなく、絶妙なバランスにより映像と言葉と共に高め合っている、というか、まず切っても切り離せない。
 
 音楽が鳴りすぎというのは、山戸作品すべてに共通している特徴だ。これについて監督は「MDウォークマンiPodが全盛期の世代で、思春期の頃、歩いてるときなどずっと音楽を聴いていたから、常に音楽が鳴っている感覚があり、自分にとっては自然だった」と既に3841587546回くらい発言している。同時代を生きる私たちの感覚で新しい映画が作られてゆくのだ、と思う。
 
(余談だが監督は「いま劇場で映画を観ることの意味は音楽に襲われるような体験にあると踏んでいる。予期せぬタイミングで爆音を聴かされる拷問の加虐性を意識するのは避けて通れない。」とも語っていて、これは『君の名は。』のことなども意識した発言だと思うのだが、『溺れるナイフ』においてはにわかには信じられない場面で大森靖子さんの「ハンドメイドホーム」が流れるのでみなさん早くその被害者になってください。あのシーン、ハァ!?!?と思ったけど「思春期の頃は悲しいときに悲しい歌を聴くわけでもないから」みたいなことも言っていて、それを映画でやってしまうことのお茶目な暴力性にひれ伏した。)
 
 
 
 最後に、身体性。恋に落ちるとき、少女は踊っていた。初恋を終えたラストシーンでも、しほは踊っている。ライブシーンでも踊り続けている。この映画はダンスに始まり、ダンスに終わるのだ。そして踊り出してしまう身体を持ちながら同時に、少女はこの身体をどう使うかということを考え続ける。
 
 自身の作品でダンスシーンをよく用いることについて監督は「若い女の子が演技をするときに、成熟した女優の持つ、その長い経験から生まれる技巧的な瞬間に勝つのは難しい。でも踊りは何百年とかかって作られてきたあるフォルムを肉体で再現するということだから、歴史性を身体に刻印できる。若い女優さんが成熟した女優さんよりも素晴らしい演技をするためにはどうしたらいいかと論理的に考えて、必然的にダンスが必要になった。(要約)」と発言している。それもそのはず、山戸作品で踊る女の子たちはとてつもない魅力を放っている。
 
 
 このように、『おとぎ話みたい』には過剰なまでの言葉の奔流、鳴りっぱなしの音楽、踊らずにはいられないダンス(そして演技)というさまざま要素が映像に濃縮されている。その情報過多な相乗効果と、全てを貫く主人公のエネルギーによって、あの高揚感が生み出されるのだ。
 
 
 
♡少女が上京するということ
 
 これは何を描いた映画かといえば「少女の上京」なのだと思う。上京するための、通過儀礼のような、初恋。
 
 この時代に少女を描くということについて、監督は一貫した発言をしている。『あの娘が海辺で踊ってる』については「従来の映画のにおいで、外側から、聖なるものとして見つめられていた人の、内側からえぐり出すような心を撮りたかった」、『溺れるナイフ』については「日本の若い女の子が、『あっ、私と同じように何かを死ぬほど望んだりする女の子が、初めて主人公になる映画なんだ』って思ってくれるような映画にしたいなと思っていました。」と。これはもちろん『おとぎ話みたい』にも言えることだろう。つまり、神聖化された天使のような被写体の「少女」ではなく、強い自我を持ち自身が欲望し渇望し思い悩み考え発言し女性である自覚を内包して踊る新しい真実の少女映画、ということ。女の子が何かを願望したり欲望したりするのは、生きていて普通だから、映画にするときもそう描くのが自然で、そのように描く映画が増えていくことを期待する。
 
 
 さて、上京はどのようにして描かれていたか。この作品では田舎⇔東京という対比構造がさまざまな形になって表現されている。新見先生とおとぎ話先輩、愛と夢、少女と女性、社会科資料室と屋上、座ることとと立つこと、暗さと明るさ。下が田舎で上が東京というように、意味を持っている。
 
 田舎の象徴である新見先生は大学院まで東京にいたが地元で働く出戻り文化人で、新見先生のいる社会科資料室は階段を下りたところに存在する。薄暗い社会科資料室にしほは何度も向かい、恋を募らせていく。一方上京してスターになることを夢見るおとぎ話先輩は階段を上った屋上、言うなれば東京に最も近い場所にいる。パンフレットでも言及されていることだが、新見先生は絶対屋上には現れない。愛は地下にあり、夢は屋上にある。
 
 上下の関係は空間のみならず一対一の動線でも表現される。しほが夜の社会科資料室で新見先生に告白をするシーン。先生にプライドを傷つけてしまい険悪な仲になったしほだったが、読みたい本があるからと、階段を下りて先生のいない真っ暗な資料室に入る。すると先生が入ってきて、しほは思いを伝えはじめる。ここで節々に挟まれるライブ映像はそれまでとは異なっており、しほは長い髪を下ろしてなまめかしく踊っている。そこに少女の姿はなく、この挿入は彼女がもうすぐ少女を卒業するということの示唆と解釈できる。思いを長々と伝えるしほは机に登り、先生を見下し「私の事、好きだったでしょ?」と告げる。すると先生も机に上って対等な位置関係で「もう帰んなよ。」と冷たく言う。しほは机から下りて、社会科資料室を出て、階段を駆け上がる。これもまた、恋(田舎)の終わりを連想させる。社会科資料室から出て階段を上るカットが映されるのは、この場面のみである。きっともう二度と、この部屋には来ることはないのだろう。
 
 しほは卒業式を迎え、式をひとりで抜け出す。新見先生に恋をしたあの時廊下にしゃがんでいたしほが、まるでその時と同じように廊下にしゃがんでいる。追いかけてきた新見先生が現れ、しほは立ち上がる。告白の夜に机に上ったしほの映像が映る。あの夜ならば同じ位置に立たれて帰りなよと言われたしほ。しかしここではその後先生が座り込む。立場が逆転し、新見先生が田舎、しほはこうして東京へゆくということが示されるのだ。私はここで彼女の初恋が終わったのだと思った。そして少女は髪をほどき表情を変え、先生のいない方向へ向かって駆け出し、階段を上って踊り出す。恋の終わりと少女が女性になることをこんな風に、しかも同時に描くことができるのだ。
 
 このように田舎⇔東京という対比を主軸に空間、人物、概念を対比させることによって、少女の変化および成長、そして上京を鮮やかに描ききっているのだ。 どうしても言葉、音楽、バレエの素晴らしさに気を取られがちだが、このようにドラマシーンの演出も格別に素晴らしいということを言っておきたい。衝動が素晴らしいとは言い切れない。綿密である。
 
 
 
♡ラストシーン
 
 今まで見た映画の中で一番好きなシーンだと思う。ラストにしほが屋上で踊る名場面である。いつどこでなにをというようにわかりやすく説明するならば、
 
高校(社会的に少女とされる時期)を卒業するまさにその瞬間に、
屋上という東京つまり夢に最も近い場所で、
初恋を終えて精神的にも少女を卒業して踊れる女性になったしほが、
ここにはいない新見先生のために、
愛の言葉を独白し続けながら、
時にフェンスにしがみつき、走り、舞い踊る。
 
というシーンである。正気の沙汰か。のたうちまわっている。これが東京でのライブシーンと合わさって、音楽(おとぎ話)、文学(しほの心、歌詞)、身体性のすべての要素が祝祭のように重なってシンクロし、爆音で鳴る初恋のフィナーレ。ここまであれだけの強いシーンがあったのは、全部これのためだったのかと思う。もう何を言っても語りつくせない、ただただ圧倒されるだけだ。
 
 
 少女を欲望の主体として描いている、と書いた。にもかかわらず観客(男性に限らないものだが)を必要とするダンサーという職業を目指すというのはこの物語の面白いところだ。つまり少女の願いとして、主体として表現したい気持ち同様に、観られる客体になりたいということがあるのだ。そして踊るということは女性であることと同時的だとしほは考える。「少女のままでは踊れない」と言うのはつまり女性である自覚を持たなければ本当には踊れない、踊りを見せて見られることはできない、少女である自分の初恋を終えて女性にならなければ本当の意味で上京することはできない、ということではないか。少女は初恋を終えて、「もう踊れるよ」と、屋上へ向かった。
 
 
 この屋上には、一番踊りを見てほしい新見先生はいない。観客はどこにもいない。けれども彼女は踊り続ける。困ったような、しかしそうせずにはいられないという表情で。ダンサーになることを夢見ることは、誰かに見られることをも欲望することだが、しほにとって、まず、踊らずにはいられないということ。誰にも見てもらえなくても、伝わらなくても、身体を動かさずにはいられない。きわめて主体的な欲望だ。クロスカッティングされるライブシーンでは、観客が存在し、成熟した女性になった姿が示される。しほは、この屋上でのダンスのおかげで東京でダンサーになれるのだ。
 
 
 
 
♡おわりに
 
『おとぎ話みたい』は文学音楽身体性の要素を上手く組み合わせ、総合芸術としての映画を目の当たりにする。そして、少女が上京をすることを本当の言語で見せてくれる。そんな映画だ。iPodのイヤホンからは、ベートーヴェン交響曲の後に地下アイドルの歌が流れて、TwitterのTLにはトランプのツイートの上に友達の鍵垢ツイートが。そうやって狂ったようにハイカルチャーポップカルチャーアンダーグラウンドも一見フラットみたいになっていった中で生きている中で、この作品はロックンロールもバレエも哲学もぶち込んだ同時代的な、私たちの映画なのだ。
 
 
 
最後まで読んでくれてありがとうございました…っていうかまだ言いたい事はたくさんあって、セリフ自体のことはあんまり書かなかったけど「先生のことが好きなの、でも、先生が好きな音楽も、先生が好きな映画も好きじゃないの。先生が好きな女の人のこと、私ぜったい嫌いだと思う。」ってとことか好きな人向かって「私の事、好きだったでしょ?」って言っちゃうとことか、「私の評価、面白いなんだ」とかね、クゥ~~~~~それ言っちゃうの!?て言葉がたくさんあって、現実では言えないけどみんな本当は思ってることだから、あ、映画でやっと達成されたね~~~え~~!?!?最高ってなるんだね。これからも色んなこと破壊して創造していってくれることであろう山戸監督が、大好き~~おしまい!