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ハッピーアワーという映画を見たよ

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「ハッピーアワー」予告編

映画『ハッピーアワー』は『不気味なものの肌に触れる』『親密さ』で知られる濱口竜介監督による、5時間17分に及ぶ長編映画である。演技経験のない4人の女性たちがロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したことで話題の作品である。三十代後半の既婚女性や離婚を経験した女性4人が、友情や愛情、体のふれあいを通して自分の本当の気持ちや幸せについて見つめていく。私はこの映画を見て、自分が映画の世界に引き込まれているのか、あるいは映画が自分たちの世界に溶け込んでいるのか判断しがたい感覚になった。登場人物たちが、たしかにそこにいると思った。映画を見るというよりも経験するというような、貴重な映画体験になった。何が観客をそうさせたのかについて考えていきたい。

 まず、俳優たちである。起用された俳優たちは皆、「即興演技ワークショップ in Kobe」というプログラムから選ばれた。参加者の三分の二ほどが演技未経験者であったのだという。この圧倒的美女やイケメンではない華のない俳優たちこそ、作品の強度になっている。どこにでもいそうな人々がどこかで起きていそうな人間関係を演じるということが、この出来事がいまもどこかで起きているのではないかというリアリティへの説得力になっていたのである。彼女たちがどのような人生を送ってきたのかは知り得ない部分であるが、表情には演技のみでは表現できないであろう凄みがあり、三十年以上生きてきた女性の経験を感じさせられた。俳優たちは役になりきる演技というよりも、自身と役を近づけようという努力をしたのではないだろうか。自身であることをできるだけ保持した状態で別の人生を生きるという実践をしているように見えた。

 そしてそれを切り取る映像も素晴らしかった。演技と同様にわざとらしさや作りこまれたドラマチックさを一切排除したカメラワークだった。重心のワークショップや、朗読会のシーンなどはフィクション映画ではなく記録映像のようですらあった。中でも目を見張ったのが対話中の顔のクローズアップである。ワークショップ中に正中線を捉えるときの印象的なクローズアップは、その後何度か繰り返された。有馬温泉の夜、4人が麻雀をしながら本音で話して、もう何年も付き合っているのに純が「はじめまして」と伝えていくシーン。ここで彼女たちを捉える映像は正中線を捉える時の映像と重なって見えた。この後、純は失踪してしまうので本当の気持ちを全て言っていたわけではないのだが、このときだけは、心の中の正中線が重なったように思われたのだ。

 印象的なシーンとして、芙美の勤め先で行われた「重心に聞く」というワークショップのシーンを挙げる。このワークショップの中であかり、桜子、純を含む参加者は丹田の音を聞いたり、額を合わせて気持ちを送り合ったりと体と心のふれあいを経験する。講師である鵜飼は趣旨や目的を説明するものの、つかみどころがなくわかりづらい。何もわからないまま他人の体の音を聞く。フィードバックで純は「何をやっているのかはわからなかったけれど、普段これだけ人と肌を合わせるということはないから、それだけで幸せな時間だった」と言う。私はここに作品の核心があると思った。額を合わせて、丹田に耳を当てて、互いに温もりを感じることはできる。しかし他人の気持ちはわからない。わからないのである。離婚調停中であることを隠していた純、執拗に嘘を嫌うバツイチのあかり、夫の鈍感さに嫌気が差す芙美、義母も夫もいい人だけれど孤独を抱える桜子。それぞれが自分自身に正直になればなるほど、言えないことも増えていく。これは当然のことなのだ。純との離婚を頑なに拒絶する公平、芙美の夫である拓也など共感しづらい人々も登場する。けれども彼らは、それぞれの人生を精一杯生きているのだ。否定することはできない。それぞれの人々が自分なりの選択をして自分を生きていくこと。それがどんなに不器用でも、生きていくことを肯定したいと思わされた。このメッセージは我々の生活に直に届く強いものであった。

 このように映画『ハッピーアワー』は演出、映像、セリフやストーリーのどれをとっても巧みに私たちの人生との交わりを持ちやすく作られた、私たちの映画だった。我々の友人がそこにいるように、あかりが、桜子が、芙美が、純が、そこにいたのである。この映画を作り上げた監督を讃えたい。

 

 

 

はあ〜久々にレポート書いて疲れたのでブログにもあげておく…締め切りの日に書いたことしかない 

 

おわり