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絶対に思い出にしかならなかったあの時間―――菊池健雄『ハローグッバイ』

 

8月14日夜、ユーロスペースにて、菊池健雄監督『ハローグッバイ』。

初夏の思い出の透明みたいな映画、よかった。

 

「ハローグッバイ 映画」の画像検索結果

 

高校二年生の夏、元カレの子どもを妊娠したかもしれないカースト上位美少女はづきと実は万引き繰り返すパシリ優等生委員長あおい、仲良くなるはずのない二人が認知症の老婦と出会って、そのおばあさんの初恋の人を探すことになり、友情のようなものを見出してゆく。

 

はづきは常に友達グループ4人で行動し、いつもLINEの通知音が鳴りやまないけれど、そんなのは孤独から目を背ける間に合わせだ。ただこの教室という世界で生きていく方法。妊娠疑惑の相手である元カレの今カノが同じグループにいる居心地の悪さ。他二人は気持ち悪い伺い合いをしている。応援してくれてるんだよね、私たち、友達だよね。心、誰ともつながっていない。本当の味方がどこにもいない。一方、優等生で委員長でお金持ちでパシリで友達のいない葵は学校にも家庭にも孤独を抱え、それを紛らわすために万引きを繰り返していた。

 

そんな二人だったのに。そんな二人だったから?誰にも言えない、言わなくてもいいような孤独を抱えていたから。でも誰かを希求する心がたしかにあったから。助けてくれなくっていいよ。もしかしたら、誰でもよかったのかもしれない。君の暗闇が発光して教室の天井に主張する、私は気づいてしまったんだよ。誰にも言えない苦しみが君にもあるってことだけ知れた喜び。

 

最も身近な人間関係に疲れてしまっても言い出せないのは無論その関係を崩したくはないからで、だからこそ少し離れた、人間関係に乱れを及ぼさない人には気楽に話せたりするものである。自分の高校時代を思い出す。一年生の時に体育をサボって保健室に行ったらサボっている保健室の常連ぽい三年生の女子の先輩(関係ないけどすんごい美人)がいて、初対面の僕に向かって一時間ずっと最近クラスの中で何があってどうつらかったかということを話してくれて、その後卒業するまで校内で見かけるたびに会釈したな。あの保健室にいた時間しかゆっくり話したことはないし、もうSNSすらつながっていないけれど。

 

認知症の老婦は、助けてくれた二人のことを二人が帰る頃にはもう忘れてしまっていた。私たちのことだってそれでいいよ、忘れてもいいよ、でもたしかにあの時のわたしたちには心のつながりがありました、もはや時すら超えて。「安心して、明日から話しかけないから」本当に話しかけないからね。またいつも通りの日々だから。元通りになるだけだから。そうやって生きてきたから。

 

もう二度と話さないかもしれない。二度と目を合わせないかもしれない。絶対に思い出にしかならなかったあの時間。心にだけ残ってゆく宝物。いつか忘れるかもしれない。別に恋しくは思わないかもしれない。でもいつでも思い出せるんだよ、あの旋律を身体が忘れてはくれなかったから。

 

youtu.be

井口奈己『犬猫』

 

今朝友達とのLINEで、日常的に「あ、今これ映画みたい」といつも思って生きているかという話になって、僕は意外とそうでもないかも。と答えたけど、いつでも無意識に自意識ピンと張り詰めて生きてしまっている僕、虚構の陶酔は往々にしてあるじゃないか、場合によってはやむを得ない逃避として。他人を浮かべて省みると現実と映画、人生と物語、現実とフィクションの境目がぐにゃりとしている人っていうのは少しやばくて少し怖くて少しかわいいな。

 

「犬猫 映画」の画像検索結果

 

映画の喜びは人それぞれ作品それぞれだけれども、自分の知らない見たことのない新しい世界を体験するっていうのは確かに在る、その一方で、自分の知っている世界が新しいものとして見えてくるというのも映画の大きな喜びではないだろうか。今日見た井口奈己監督の『犬猫』(2004)はどう考えても後者だった。留学で家を空けた友達の家で共同生活することになったヨーコとスズの一悶着ある友情の話。

 

登場人物はヨーコとスズとその元カレの西島秀俊とヨーコが惹かれてる忍成修吾なんだけどマジで全員その辺に住んでそうなんだよね。全員の登場人物が自分の家から徒歩10分圏内にいそうだ。しかも全員愛おしい。引きの構図が多いからそう思えるのかもしれないが、ヨーコの世界でもスズの世界でもないその辺の世界で映画が作られていて、我々は彼女たちを客観的な視点から見ることになって、そのちょっぴり愚かな彼女たちそれぞれを愛おしく思えてくる。とってもチャーミングなんだよ。

 

撮影もたぶん僕が今寝てるここから徒歩10分圏内のその辺でやってるに違いないです。と思わせてくれます。暮らす家、図書館、コンビニ、河川敷、橋、坂道、階段、犬と猫と鳩。ドカンと派手な舞台装置は出てこないし、殺人事件は起こらない。でも実はそれがぼくたちの普通の日常でしょう?その、私たちと地続きの世界をこんな風にまるで讃えるように見せてくれるのか、と心が震えた。部屋の中へ吹き込んでくる風、揺れるカーテン大きな窓、心地よい自然光、あの縁側。ていうか光に照らされたコンビニの雑誌コーナーつまり窓際ってこんなに美しかったんだね。奇跡みたいなコンビニってこれか?

 

だから究極は「自分たちの暮らしにカメラを置けばこのように価値ある映画になるのではないか?」と錯覚します。でもね、絶対そんなわけないんだよねアハハハハ!こんな奇跡みたいな映画は撮れるわけねーよ!わざとらしくなさを精巧に丁寧に作っている。監督はきっとロケハンの時点でここにこう人間を置いてこの時間帯に撮ればいい映画になるって見えているんだろうなと思うし、待ちに待った完璧なタイミングで光も風も撮っている。でもありふれているように見える。クゥ。

 

『犬猫』を見た後に外に出れば、いつもの駅までの通り道にも映画が見えるはず。日常の中で「これ映画みたい」っていうより「これも映画になるのかも」って感じ?伝わったかな、ぜひ見てね。

 

あと井口奈己監督の

人のセックスを笑うな』気が狂いそう

『ニシノユキヒコの恋と冒険』縁側と風

は最高だし世界地続きだな系でいうと濱口竜介監督作品とか井口監督の会話場面が好きならエリックロメール作品もオススメです。

 

おやすみ

イェイイェイのウォウウォウについて

 

気持ちとしてはまるで忙しい人のようであるが、生活が下手なだけである。

 

3/22(土)

ミスiDパフォーマンスアート部(略してPAB)

旗揚げ公演『快適ピューララランド』

@渋谷Moja(東京都渋谷区渋谷1丁目11−1)

第一部OPEN16:30/START17:00

第二部OPEN20:00/START20:30

出演:中村インディア、私。、水野しず、ゆっきゅん、碧緋奈、Nakanoまる、LIQ、EITA、まりん、佐藤南美、鈴木遼太、菊地侑紀、櫻井香純

チケット予約はこちらから

4/22 ミスiDパフォーマンスアート部公演「快適!ピューララランド」ご予約

 

演技と歌とダンスやります、パフォーマンスアート。

記念すべき旗揚げ公演にぜひお越しください。

このためにNakanoまるさんが作ってくれた名曲をパフォーマンスします。

しかもぼくはありえん可愛い格好をしています。

チェキも撮れるし誰かの投げキッスとかも持っていくね!

 

3/23

映画大好きミスiD

Naked Loft地図

@ネイキッドロフト

OPEN12:00/START12:30

前売¥2800当日¥3300(要オーダー)↓ここから

http://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010843P006001P002223278P0030001

出演:水野しず、洪潤梨、ゆっきゅん、空蝉ねう、町田彩夏、あおい12さい、さぃもん

 

好きな一つの映画についてシーン参照しながら20分くらい語ってくれと言われました。

SM女王様の青春か、孤独を抱える高校生の群像劇か、

どちらかで迷ってるけど、後者かな。語るので来てください。

間にあえば好きな映画について書いて印刷して持っていきたい、ここ限定で

もちろん物販もありますのでいろいろもっていくね!きてね

 

3/23

ゆっきゅんTHEナイト@bar星男

 

これ毎月たのしいの。新宿のバーとか行かない人、

え??ってくらい居心地いいはずだからきてね。

 

 

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

来月19-30日星男で個展します「消滅フラペチーノ」

初音源発売しますよろしくお願いします!

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

 

 

ああああああああ好きなアイドルのワンマンのチケット紛失して気がおかしくなっててほんと無理無理無理無理

質問答え彦

余談しまくって質問に答えるので見返りに皆さんこれに絶対来てくださいね。

 

f:id:temee:20170220213145j:image

 

♡好きな作家・詩人教えてください

何人も読書や本についての質問をくれたんですが、ぼくはさして読書家ではない(というコンプレックスがあります!)し特に小説とかあんま読まないし少年アヤさん以外は全作品制覇とかしていないのですが、川上未映子さんや最果タヒさんは好きですね。頭の中の、閉じていたけど近くにあった扉が開かれてゆく感じがします。10代のころは嶽本野ばらさんや本谷有希子さんや山崎ナオコーラさんの作品とかよく読んでたかな。ていうか先週好きな男子中学生アイドルが「僕は伊坂幸太郎さんが大好きなんですけど、まだ読んでない作品があるので、今年は全部読みたいです」って言ってて、一冊の半分くらい読んだだけなんだろうなって思いました。可愛い(泣) 詩人といえば自分にとって大きいのは歌手の方ですね。きっと僕が惹かれているのは、切り離せないにせよ、音楽よりも言葉だと思う。今は大森靖子さんの歌詞を同時代的存在としていつも楽しみにしていて、不動の存在として浜崎あゆみさんの歌詞があります。松本隆さんや小出祐介さんの詩も大好きです。

浜崎あゆみについて語って欲しいです。

生きててくれてありがとうございます

♡好きなフルーツはなんですか?

いちご(∩˃o˂∩)♡

ハロプロで好きな曲5曲教えてください

かなり流動的なので2017年2月に聴いているハロプロ5曲ってことでいま思い浮かぶのは、
FIRST KISS/あぁ!(最高)
ザ☆ピ〜ス!/モーニング娘。(真実)
行くZYX!FLY HIGH/ZYX(絶対、一杯)
王子様と雪の夜/タンポポ(可愛)
あと反則だけどソニン全般熱い

♡どこでお洋服を買いますか

ずっと見てる人にはバレてると思いますが最近お洋服全然買ってないんですよね。白タイツは増えていくけどね、ダメだよね…。ファッションっていうかトレンドとかにはそんなに興味がなくて、自分に似合う服を着て心を華やかにしたり生きやすくさせる方向にしか関心がないんだろうなと薄々気づいています。よく買ってるブランドはラフォーレ原宿3Fのh.t maniac MENで、あとは古着屋ならGrimoireにもthe Virgin Maryにも行きますし高円寺とかも。店にはこだわりがなくて「私の服ダーーッ」って思ったらどこでも買います。琴線に触れれば何でもいい

♡ポテチ好きですか

自分で買ったことないが、あれば拒まない。

山崎賢人、坂口健太郎、菅田将暉について、ジャニーズについて語ってほしいです。それと本のことをたくさん話してほしいです。俳優は神木くん福士くんも候補に入れていただけると嬉しいです。でも考えた結果私が一番聞きたいのは大学のことでした。いま大学のことを決めなければ行けない時期に差し掛かっているので大学のお話を聞けたら喜びますかなり。

山﨑賢人さん→かっこいい
坂口健太郎さん→好きに決まってるだろ
菅田将暉さん→すごい
神木隆之介→ここでは語りつくせない
福士蒼汰さん→後輩が似てる
ジャニーズ→知らないけどジャニオタ好き

 

これは本当に自分の場合のことしか答えられないし大学生に怒られるかもしれないですが

高校を卒業すると世界の範囲が教室ではなくなります(本当は高校までもそうですが…)。大学の中に面白いことや人は一切期待せず、ぜひ外へ目を向けてください。学生だからできること、とか甘えないように。それからサークルにでも入らない限り、嫌いな人との人間関係を構築する必要がなくなります。よかった!私が今行ってる大学を選んで良かったと思うのは圧倒的に立地です。芸術や文化を学ぶ身として、東京の田舎に上京しなくてよかったーと心から思う。学びたいことがあるなら立地と教授で選ぶのがいいと思います。

♡かっこいい、かわいい、おもしろいの中だったらなんて言われるのが嬉しいですか?

全部合わせてゆっきゅんでしょうが。でも、だったら、美しいが欠けてますね。フォロワーの人は知らないけどファンの方はゆっきゅんが実はかっこいいってことに気づいてるなーって思います

♡朝ごはんはたべますか?

食べない。良くないとは思う。

♡以前このままいけば今年はジャニーズにハマる(合ってなかったらごめんなさい)と言っていましたがどのグループどのメンバーが気になりますか?

君にHITOMEBOREでグハッ!?と気づいていたSexy Zone佐藤勝利さん、今のなんかの雑誌の表紙がマジで完璧すぎてやべえ

♡わりと穏やか音楽で、好きなグループがいたら教えてください!

グループじゃないけど穏やかな音楽なら安藤裕子さんが好きです。少し前にある男性に何を言われたわけでもないけどモラハラみを感じてしまい心臓が固まったまま帰宅してどうしてくれようかこの臓器…と悩んで安藤裕子さんの『Merry Andrew』に耳を沈めましたら治りました。Mステで見て翌朝にCDショップへ向かって買ったアルバム、小6の夜はこれを毎晩聴かねば寝られなかったことを思い出せます。なんていうか、母体の中の暖かな海でたゆたう感じになれますので、マザコンの人はぜひ…


♡ゆっきゅんを構成している本が知りたいです!

本には構成されていないですね。人生の転機になった本があるとすれば、下妻物語、無限の網、少年アヤちゃん焦心日記かな。人生観変わる本にどんどん出会いたい

♡シャンプーは何を使っていますか?

BOTANIST

♡もう一度縷々夢兎身につけたゆっきゅんを見たいですそして拝みたい...⚪️⚪️⚪️

良い子にしていれば…きっと…

 

最後まで読んでくれてありがと🎠

全身で恋した季節ー山戸結希『溺れるナイフ』

「そのころ私はまだ15歳で、全てを知ることができる、全てを手に入れることができる、全てを彼に差し出し、共に笑い飛ばす権利が自分にのみあるのだと思い込んでいた。私が欲しているのは、身体を貫くような眩い閃光だけなのだ。目が回るほど、息が止まるほど、震えるほどーーーー」


 このモノローグが流れるタイトルバックは、東京から田舎へ引っ越してきた元ティーン誌モデルの望月夏芽と土地に代々伝わる名家の息子コウが海へと飛び込んだ瞬間に始まる。どう見ても、海っていうか恋に落ちているだろう。二人の出会いは神さんの海と呼ばれる立ち入り禁止区域だった。強引にも海を恋と捉えるならば、恋とは時に荒波のように激しくなるものであり、人間の支配を超えたものであり、そこにあって当たり前の抗えぬ存在なのだ。神懸かった光を放つ少年に導かれて共に海へとドボン、つまり身体が限界状態にある中で象徴的に物語の始まりが告げられる。その後全編にわたって、心情そのままを表すようにして身体が酷使される。コウという閃光に身体を貫かれてしまった夏芽は、その光に追いつきたいと、全身全霊で恋をすることになる。二人以外は立ち入り禁止のその恋を。

 
 コウちゃんに追いつきたい、という気持ちは文字通り「追う」動きに表れる。夏芽が通学路で自転車に乗ってコウを追いかけて並走するシーン。モデルをクビにされたんだろとコウに言われた夏芽は、著名な写真家広能晶吾から写真集を作る依頼が来ていることをコウに自慢する。けれども興味なさげなコウ。二人の位置関係は何度も前後する。山で夏芽と広能が写真集の撮影をしているシーンでは、突然コウが現れて石を投げ、「この山は俺のもんじゃ、そいつ(夏芽)も俺のじゃ」と言って逃げる。夏芽はコウを追いかけて走り出す。追いつこうと必死で走る(手に持っていた美しい花々を山道に落としながら)が、コウは軽々と飛ぶように逃げてみせる。ここでははじめて、コウの追いつかれまいとする意志が見える。夏芽は諦めて仰向けに倒れる。こちとら命がけの恋をしておりますので、濡れるとか汚れるとか気にしてる場合じゃないのです。そして写真集が完成し、夏芽が「写真集、できた」とコウに言って逃げると、コウが追いかける。逃げて走って水路に倒れろ、心も体もずぶ濡れだ。写真集をコウに見せた後、さらにコウちゃんがくれたサイダーに濡れてそのままキス、菅田将暉の美しい喉仏が収まったところで二人のチェイスは一旦終了である。最初は夏芽がコウを追いかけていただけだったが、コウも夏芽を追いかけるようになり、二人の気持ちが通じた。一方で、コウに追いかけられる夏芽の気持ちは、コウを追いかけているときと変わらなかったのではないかという疑念が残る。夏芽はコウの心を追い抜くということはなく、追うときも逃げる時もいつだってコウに勝ちたくて、追いつきたくて、走っていたのではないだろうかということである。考えるより先に身体が早い。山、風、水と共にある夏芽の溢れる恋そのものだった。
 
 夏の伝統行事火祭りでのある事件の後、二人は別れてしまった。高校に進学し、夏芽の元へ現れたのは中学からのクラスメイトの大友だった。夏芽は大友を決して追いかけない。二人の動線はぐるぐると回った、進んでいかなかった。大友はいつでも夏芽のいる場所に来てくれたし、やさしく隣に座ってくれた。そんな大友に惹かれてゆく夏芽だったが、二人で椿の蜜を吸っていたところをコウがバイクで通り過ぎると、コウに視線を奪われ椿を口から落としてしまう。夏芽って本当に自制が効かないよね。大友といると笑顔になれるけれど、やさしい気持ちになれるけれども、駆り立てられない何かがある。新しく映画の主演をやらないかと依頼してきた広能が訪ねてきて、今の君は昔のような光がないと言われたときには、大友をフェンスの向こうに置いて、悔しくて悔しくて走り出し、川辺(またしても大事なシーンで水が近い)でうずくまって泣いてしまうのだった。私は私の力を使いたいという心に、気づきだしていた。
 
 どこまでも抗えぬ光、追いかけてしまうあなた、あるいはいつでも私の隣にいて寄り添ってくれるあなた。ごめんなさい、一緒にはいられない。私は東京で女優になります!少女映画において何と新しい提案であろうか、ハッピーエンドは私が決めるよ。(監督も仰ってたことだが)現代の女性が本当に自己実現をしようとしたとき、一番惹かれる男性とも、一番そばにいてくれる男性とも、添い遂げられないのだなんて!真理が過ぎる。夏芽にとって身体を貫く閃光とはコウちゃんのことだけではなかった、カメラのフラッシュこそ夏芽を貫き、遠くまで連れて行ってくれるものだったのだ。「わたしが前に進む限り、コウちゃんの背中が見えるよ。思い出す、コウちゃんを、ずっと思い出すんだよ」浮雲での恋を胸に東京で生きてゆく。大自然の中で、持て余す思春期の肉体で思うままに走って倒れてびしょびしょになって、全身で一生分の恋をした夏芽。もうそれだけでずっと、生きていけるのだ。

山戸結希『おとぎ話みたい』が超大好きって話

 
 私が上京して初めて東京で観た映画は山戸結希監督『5つ数えれば君の夢』だ。映画においてその場所が東京であることを示すのに最も映されているであろう渋谷のスクランブル交差点の雑踏を抜けて、グーグルマップの向きを何度も変えたりしながら、これが東京のセンター街か、これがスペイン坂…?あ、パルコだ。と振り返ってたどり着いたのが今は閉館してしまったシネマライズだった。こんなは映画は見たことがない、これが見たかったとひとり大興奮し、帰りにノートを買って感想を書き殴ったことを思い出せる。
 山戸結希監督の存在を知ったのは高校生のときにTwitterで、たしか批評家の中森明夫さんが褒めちぎっているのを見たときだった。予告編とインタビューと関連ツイートをむさぼるように見た、それはまるで新見先生に貫かれた高崎しほのようだったかもしれない。けれども悲しいかなここは地方都市岡山、『あの娘が海辺で踊ってる』『おとぎ話みたい』はもちろん上映されることはなく、DVD化もされていなかったのだから、一刻も早く東京に行ってその光を見たいという思いが募るばかりの2013年を過ごしたのだった。あなたに会いにここまで来たのですよ、と東京の暗闇に着いたときの心の中。
 
 東京に焦がれて上京した者にとって『おとぎ話みたい』は特別な作品にならないはずがなく、2014年の冬にテアトル新宿で二度、2015年の大晦日(ここが一番自分の中では印象深かった)、2016年の上映、DVDで何十回も観た。世界一好きな監督の、大好きな作品。あなたはきっと、これは私の映画だって言いたくなるでしょうね。好きすぎて大学の映画研究ゼミで自分なりに発表したので、それを書きます。 
 
 
 
♡おとぎ話みたいを構成するもの
 
 まずは文学。「どうしようと思ったときには心はいつもどうしようもなく、足りないと思うということはかつて満ち足りていたという証左に他ならないのだが…」冒頭からやや難解とも思えるモノローグに始まり、その後も少女は詩的で哲学的な大量のモノローグと台詞を奔流し続ける。ハマる人そうでない人はっきりと分かれるだろうと思うが無論私は前者だった。身に覚えのある感情が、けれども自分の中にはなかった言葉で饒舌に語られるその新しい感覚に、浸り続けることになる。
 
 次に、音楽。この作品を見て驚くのは、地方の高校で展開されるドラマの場面と同時並行でおとぎ話のライブ映像が流されていることだ。ライブの中で高崎しほはおとぎ話のバックダンサーの一人としてライブハウスで踊っている。これは上京後のしほとおとぎ話先輩の姿だと素直に解釈できる・『おとぎ話みたい』は音楽映画祭MOOSIC LAB2013の企画で制作されたのだから納得だが、それにしても全編ほとんどの場面で音楽が流れている。しかし物語と連動しながら流れ続ける音楽は映画の邪魔をすることは決してなく、絶妙なバランスにより映像と言葉と共に高め合っている、というか、まず切っても切り離せない。
 
 音楽が鳴りすぎというのは、山戸作品すべてに共通している特徴だ。これについて監督は「MDウォークマンiPodが全盛期の世代で、思春期の頃、歩いてるときなどずっと音楽を聴いていたから、常に音楽が鳴っている感覚があり、自分にとっては自然だった」と既に3841587546回くらい発言している。同時代を生きる私たちの感覚で新しい映画が作られてゆくのだ、と思う。
 
(余談だが監督は「いま劇場で映画を観ることの意味は音楽に襲われるような体験にあると踏んでいる。予期せぬタイミングで爆音を聴かされる拷問の加虐性を意識するのは避けて通れない。」とも語っていて、これは『君の名は。』のことなども意識した発言だと思うのだが、『溺れるナイフ』においてはにわかには信じられない場面で大森靖子さんの「ハンドメイドホーム」が流れるのでみなさん早くその被害者になってください。あのシーン、ハァ!?!?と思ったけど「思春期の頃は悲しいときに悲しい歌を聴くわけでもないから」みたいなことも言っていて、それを映画でやってしまうことのお茶目な暴力性にひれ伏した。)
 
 
 
 最後に、身体性。恋に落ちるとき、少女は踊っていた。初恋を終えたラストシーンでも、しほは踊っている。ライブシーンでも踊り続けている。この映画はダンスに始まり、ダンスに終わるのだ。そして踊り出してしまう身体を持ちながら同時に、少女はこの身体をどう使うかということを考え続ける。
 
 自身の作品でダンスシーンをよく用いることについて監督は「若い女の子が演技をするときに、成熟した女優の持つ、その長い経験から生まれる技巧的な瞬間に勝つのは難しい。でも踊りは何百年とかかって作られてきたあるフォルムを肉体で再現するということだから、歴史性を身体に刻印できる。若い女優さんが成熟した女優さんよりも素晴らしい演技をするためにはどうしたらいいかと論理的に考えて、必然的にダンスが必要になった。(要約)」と発言している。それもそのはず、山戸作品で踊る女の子たちはとてつもない魅力を放っている。
 
 
 このように、『おとぎ話みたい』には過剰なまでの言葉の奔流、鳴りっぱなしの音楽、踊らずにはいられないダンス(そして演技)というさまざま要素が映像に濃縮されている。その情報過多な相乗効果と、全てを貫く主人公のエネルギーによって、あの高揚感が生み出されるのだ。
 
 
 
♡少女が上京するということ
 
 これは何を描いた映画かといえば「少女の上京」なのだと思う。上京するための、通過儀礼のような、初恋。
 
 この時代に少女を描くということについて、監督は一貫した発言をしている。『あの娘が海辺で踊ってる』については「従来の映画のにおいで、外側から、聖なるものとして見つめられていた人の、内側からえぐり出すような心を撮りたかった」、『溺れるナイフ』については「日本の若い女の子が、『あっ、私と同じように何かを死ぬほど望んだりする女の子が、初めて主人公になる映画なんだ』って思ってくれるような映画にしたいなと思っていました。」と。これはもちろん『おとぎ話みたい』にも言えることだろう。つまり、神聖化された天使のような被写体の「少女」ではなく、強い自我を持ち自身が欲望し渇望し思い悩み考え発言し女性である自覚を内包して踊る新しい真実の少女映画、ということ。女の子が何かを願望したり欲望したりするのは、生きていて普通だから、映画にするときもそう描くのが自然で、そのように描く映画が増えていくことを期待する。
 
 
 さて、上京はどのようにして描かれていたか。この作品では田舎⇔東京という対比構造がさまざまな形になって表現されている。新見先生とおとぎ話先輩、愛と夢、少女と女性、社会科資料室と屋上、座ることとと立つこと、暗さと明るさ。下が田舎で上が東京というように、意味を持っている。
 
 田舎の象徴である新見先生は大学院まで東京にいたが地元で働く出戻り文化人で、新見先生のいる社会科資料室は階段を下りたところに存在する。薄暗い社会科資料室にしほは何度も向かい、恋を募らせていく。一方上京してスターになることを夢見るおとぎ話先輩は階段を上った屋上、言うなれば東京に最も近い場所にいる。パンフレットでも言及されていることだが、新見先生は絶対屋上には現れない。愛は地下にあり、夢は屋上にある。
 
 上下の関係は空間のみならず一対一の動線でも表現される。しほが夜の社会科資料室で新見先生に告白をするシーン。先生にプライドを傷つけてしまい険悪な仲になったしほだったが、読みたい本があるからと、階段を下りて先生のいない真っ暗な資料室に入る。すると先生が入ってきて、しほは思いを伝えはじめる。ここで節々に挟まれるライブ映像はそれまでとは異なっており、しほは長い髪を下ろしてなまめかしく踊っている。そこに少女の姿はなく、この挿入は彼女がもうすぐ少女を卒業するということの示唆と解釈できる。思いを長々と伝えるしほは机に登り、先生を見下し「私の事、好きだったでしょ?」と告げる。すると先生も机に上って対等な位置関係で「もう帰んなよ。」と冷たく言う。しほは机から下りて、社会科資料室を出て、階段を駆け上がる。これもまた、恋(田舎)の終わりを連想させる。社会科資料室から出て階段を上るカットが映されるのは、この場面のみである。きっともう二度と、この部屋には来ることはないのだろう。
 
 しほは卒業式を迎え、式をひとりで抜け出す。新見先生に恋をしたあの時廊下にしゃがんでいたしほが、まるでその時と同じように廊下にしゃがんでいる。追いかけてきた新見先生が現れ、しほは立ち上がる。告白の夜に机に上ったしほの映像が映る。あの夜ならば同じ位置に立たれて帰りなよと言われたしほ。しかしここではその後先生が座り込む。立場が逆転し、新見先生が田舎、しほはこうして東京へゆくということが示されるのだ。私はここで彼女の初恋が終わったのだと思った。そして少女は髪をほどき表情を変え、先生のいない方向へ向かって駆け出し、階段を上って踊り出す。恋の終わりと少女が女性になることをこんな風に、しかも同時に描くことができるのだ。
 
 このように田舎⇔東京という対比を主軸に空間、人物、概念を対比させることによって、少女の変化および成長、そして上京を鮮やかに描ききっているのだ。 どうしても言葉、音楽、バレエの素晴らしさに気を取られがちだが、このようにドラマシーンの演出も格別に素晴らしいということを言っておきたい。衝動が素晴らしいとは言い切れない。綿密である。
 
 
 
♡ラストシーン
 
 今まで見た映画の中で一番好きなシーンだと思う。ラストにしほが屋上で踊る名場面である。いつどこでなにをというようにわかりやすく説明するならば、
 
高校(社会的に少女とされる時期)を卒業するまさにその瞬間に、
屋上という東京つまり夢に最も近い場所で、
初恋を終えて精神的にも少女を卒業して踊れる女性になったしほが、
ここにはいない新見先生のために、
愛の言葉を独白し続けながら、
時にフェンスにしがみつき、走り、舞い踊る。
 
というシーンである。正気の沙汰か。のたうちまわっている。これが東京でのライブシーンと合わさって、音楽(おとぎ話)、文学(しほの心、歌詞)、身体性のすべての要素が祝祭のように重なってシンクロし、爆音で鳴る初恋のフィナーレ。ここまであれだけの強いシーンがあったのは、全部これのためだったのかと思う。もう何を言っても語りつくせない、ただただ圧倒されるだけだ。
 
 
 少女を欲望の主体として描いている、と書いた。にもかかわらず観客(男性に限らないものだが)を必要とするダンサーという職業を目指すというのはこの物語の面白いところだ。つまり少女の願いとして、主体として表現したい気持ち同様に、観られる客体になりたいということがあるのだ。そして踊るということは女性であることと同時的だとしほは考える。「少女のままでは踊れない」と言うのはつまり女性である自覚を持たなければ本当には踊れない、踊りを見せて見られることはできない、少女である自分の初恋を終えて女性にならなければ本当の意味で上京することはできない、ということではないか。少女は初恋を終えて、「もう踊れるよ」と、屋上へ向かった。
 
 
 この屋上には、一番踊りを見てほしい新見先生はいない。観客はどこにもいない。けれども彼女は踊り続ける。困ったような、しかしそうせずにはいられないという表情で。ダンサーになることを夢見ることは、誰かに見られることをも欲望することだが、しほにとって、まず、踊らずにはいられないということ。誰にも見てもらえなくても、伝わらなくても、身体を動かさずにはいられない。きわめて主体的な欲望だ。クロスカッティングされるライブシーンでは、観客が存在し、成熟した女性になった姿が示される。しほは、この屋上でのダンスのおかげで東京でダンサーになれるのだ。
 
 
 
 
♡おわりに
 
『おとぎ話みたい』は文学音楽身体性の要素を上手く組み合わせ、総合芸術としての映画を目の当たりにする。そして、少女が上京をすることを本当の言語で見せてくれる。そんな映画だ。iPodのイヤホンからは、ベートーヴェン交響曲の後に地下アイドルの歌が流れて、TwitterのTLにはトランプのツイートの上に友達の鍵垢ツイートが。そうやって狂ったようにハイカルチャーポップカルチャーアンダーグラウンドも一見フラットみたいになっていった中で生きている中で、この作品はロックンロールもバレエも哲学もぶち込んだ同時代的な、私たちの映画なのだ。
 
 
 
最後まで読んでくれてありがとうございました…っていうかまだ言いたい事はたくさんあって、セリフ自体のことはあんまり書かなかったけど「先生のことが好きなの、でも、先生が好きな音楽も、先生が好きな映画も好きじゃないの。先生が好きな女の人のこと、私ぜったい嫌いだと思う。」ってとことか好きな人向かって「私の事、好きだったでしょ?」って言っちゃうとことか、「私の評価、面白いなんだ」とかね、クゥ~~~~~それ言っちゃうの!?て言葉がたくさんあって、現実では言えないけどみんな本当は思ってることだから、あ、映画でやっと達成されたね~~~え~~!?!?最高ってなるんだね。これからも色んなこと破壊して創造していってくれることであろう山戸監督が、大好き~~おしまい!