2016-2-12
2016-2-11
夢じゃなかったこと
今日も明日も自分語り、いっくよー!
昨年の夏から秋。好きな俳優の人やアイドルに会いに行くときは決まってラブレターのワンポイントモチーフがついた白い靴下を履くようにしていた。僕は足の指の毒素が人一倍みなぎっているらしく、2回着用したくらいで靴下が破けたので現場に行く前にその靴下を買った。だから5足くらいはある。昨日、久しぶりにその店に入った。何を買うつもりでもなくふらふらして、靴下のコーナーにたどり着き、ラブレターの靴下を探したらもうどこにも置いてなかった。あの頃の僕ももうどこにもいなくて、時は流れたのだなあっという間に。
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さて同時期昨年の下半期に何をしていたかというと、それは写真集「夢じゃない」の制作それが全て。こんなことは今までになかった。僕はきっとすごいものを作らないといけないのだという傲慢な使命感、 この溢れ出る感情と揺れ動く自分それでも揺るがない自分のひとつひとつを丁寧に見つめてあげて何か作品に昇華しないとどうにも生きてはゆかれないのだという確信に突き動かされてあっという間。確かに戦っていた、走っていた、そして進んでいった。僕は嘘がつけないから顔に全部出ていて、強すぎる。なんでロリータのフリフリを着てお前はそんなに死闘のような表情しかできないんだよと今なら笑えるけど泣きそうにもなる。笑えるほどに必死だった。どの写真も僕の人生だし、時間ないしお金ないいけど妥協できない。がんばったねって言いたい。よく乗り越えたねって言いたい。僕はやっと今、一瞬だけ自分を自分で抱きしめてあげたいと思える。
協力してくれたみんなのおかげでなんとか間に合って写真集ができて、展示の準備ができて、サイコーだなとは思っていたけど それでも不安だった。これが自己満足だったらどうしようと思った。誰にも愛を残せないものだったなら死にたいと思った。そして初日から想定以上にお客さんが来てくれた。楽しみにしてくれていた人、はじめて来てくれた人、友達の付き添いできてくれた人、たまたまDMを見つけてきてくれた人、一人ひとりがうれしかった。
みなさまの感想をまとめました、置いてたノートに書いてくれたひともありがとう
ゆっきゅんのことを見てくれて、何か感じてくれるひとというのはみんな真面目に生きているひとで、どこかでなにかに傷ついている人ばかりだった。真面目に生きてると屈折しちゃうよね、傷ついちゃうよね。僕は「自分が救えるひとがきっとどこかにいる」と根拠のないことを信じて活動してきたけど、たしかにいた。自分が救える人が存在していて、僕が抱きしめてあげない人たちがいる。確信になった。
しかもそれは男女関係ないことだった。思っていたよりも男性が来てくれた。男性の友人はほとんどいないし、いつも来てくれる男の子は一人だけ(ありがとう)なのだけど、はじめて来てくれる男の子がたくさんいた。「ゆっきゅんさん尊敬しています」と言ってくれた。ある面では男女関係ないと思っているけど、ある面ではまだ男女にこだわらないといけないといけない。ロリータを着て、ドレスを着て、自分を男子と言い張ること。受け入れるとか受け入れないとか認めるとか認めないとかそんな上から目線で見られるのはご免だし、正々堂々これが自分なんで、どう思われたっていい。でも写真集制作中に特に誰に見てもらいたいかと考えたとき思い浮かんだのは男性だった。弱い考えだけど、こんな自分が男性であることを男性に肯定してもらいたいと思った。だから、来てくれた男の子が自分を男性として見てくれたのが本当にうれしかった。「あ、いいんだ」って思わせる側の自分が「あ、いいんだ泣」って思えたんです。。
(このあたりの性自認についてはどんどん変わっていくと思うのであくまで今の気持ちとして捉えてくださいね)
そんなこともあって少年アヤさんに帯をお願いしていました。
少年アヤさんは僕が高3のとき、アヤさんがオカマを自称(自傷)していた頃からブログを一方的に読んでいてファンだった。自分と戦いつづける自分を書きつづけていて、その文章を読むのはつらいときもあるのだけど、勇気をもらっていたのでした。アヤさんは以前アイドルや俳優に入れ込んでいた過去があり、僕は昨年初夏にそのスタートラインに立った。「なりたい」なんだよねわかる。。。そのころ「少年アヤちゃん焦心日記」を読み直したことが、「夢じゃない」を作るきっかけにもなった。どんなに地獄でも僕も自分と正面から向き合わないといけないという決意につながって、写真集を作ることにした。そんなアヤさんに書いてもらった帯がこれです。(大好きだけど恥ずかしくてあんま言えないからお仕事としてお願いしてラブレター書いてください♡と思ったの)
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夢だと笑うひとに、このうつつは見えまい
滑稽なほどうつくしい写真に、
夢のようだと見とれた人から、
この現実に置いていかれる。
それは惜しいことだ。
ぜったいに着いていかなくてはいけない。
僕たちも全力で、ゆっきゅんに。
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アヤさんが僕にDMをくれたことがあった。モンスターカフェでのお客様からの心ない質問にいちいち傷つく僕に「どうか負けないで。負けないことに価値があるから。」と言ってくれた。アヤさんは一度オカマを自称して傷ついた経験があり、僕のことを「オカマと言わなかった自分」と思ってくれている。1人の戦いじゃないんだ。絶対に負けてはいられないと、強く思いました。自分がこうして生きていることを現実として見せていく、それが僕の、自分との戦いです。着いてきてね。
展示が終わってからもう三か月くらいは経った体感なのだけど、まだほんの一月しか経っていないらしい。作りはじめから今までを数えても半年くらい。ラブレターソックスを買い始めて半年経ってわかるけど、あの頃すぐ穴が開いていたのはどう考えたって精神の現れです。心がボロボロダダダダギュンギュンで、足の指にまで毒素が行き届いていたってことだと思う。今、全然穴あかないし。どれもずいぶん前のことに思えるのは、進んでいるから。「夢じゃない」をスタートにして過去にして、どんどん進んでいく。救える人がいることに気付いたから。一生孤独でも、見てくれる人はいるから。
ゆっきゅんはおわらない
2016-2-4
感謝感激モンスタLoVE
ハッピーアワーという映画を見たよ
映画『ハッピーアワー』は『不気味なものの肌に触れる』『親密さ』で知られる濱口竜介監督による、5時間17分に及ぶ長編映画である。演技経験のない4人の女性たちがロカルノ国際映画祭で最優秀女優賞を受賞したことで話題の作品である。三十代後半の既婚女性や離婚を経験した女性4人が、友情や愛情、体のふれあいを通して自分の本当の気持ちや幸せについて見つめていく。私はこの映画を見て、自分が映画の世界に引き込まれているのか、あるいは映画が自分たちの世界に溶け込んでいるのか判断しがたい感覚になった。登場人物たちが、たしかにそこにいると思った。映画を見るというよりも経験するというような、貴重な映画体験になった。何が観客をそうさせたのかについて考えていきたい。
まず、俳優たちである。起用された俳優たちは皆、「即興演技ワークショップ in Kobe」というプログラムから選ばれた。参加者の三分の二ほどが演技未経験者であったのだという。この圧倒的美女やイケメンではない華のない俳優たちこそ、作品の強度になっている。どこにでもいそうな人々がどこかで起きていそうな人間関係を演じるということが、この出来事がいまもどこかで起きているのではないかというリアリティへの説得力になっていたのである。彼女たちがどのような人生を送ってきたのかは知り得ない部分であるが、表情には演技のみでは表現できないであろう凄みがあり、三十年以上生きてきた女性の経験を感じさせられた。俳優たちは役になりきる演技というよりも、自身と役を近づけようという努力をしたのではないだろうか。自身であることをできるだけ保持した状態で別の人生を生きるという実践をしているように見えた。
そしてそれを切り取る映像も素晴らしかった。演技と同様にわざとらしさや作りこまれたドラマチックさを一切排除したカメラワークだった。重心のワークショップや、朗読会のシーンなどはフィクション映画ではなく記録映像のようですらあった。中でも目を見張ったのが対話中の顔のクローズアップである。ワークショップ中に正中線を捉えるときの印象的なクローズアップは、その後何度か繰り返された。有馬温泉の夜、4人が麻雀をしながら本音で話して、もう何年も付き合っているのに純が「はじめまして」と伝えていくシーン。ここで彼女たちを捉える映像は正中線を捉える時の映像と重なって見えた。この後、純は失踪してしまうので本当の気持ちを全て言っていたわけではないのだが、このときだけは、心の中の正中線が重なったように思われたのだ。
印象的なシーンとして、芙美の勤め先で行われた「重心に聞く」というワークショップのシーンを挙げる。このワークショップの中であかり、桜子、純を含む参加者は丹田の音を聞いたり、額を合わせて気持ちを送り合ったりと体と心のふれあいを経験する。講師である鵜飼は趣旨や目的を説明するものの、つかみどころがなくわかりづらい。何もわからないまま他人の体の音を聞く。フィードバックで純は「何をやっているのかはわからなかったけれど、普段これだけ人と肌を合わせるということはないから、それだけで幸せな時間だった」と言う。私はここに作品の核心があると思った。額を合わせて、丹田に耳を当てて、互いに温もりを感じることはできる。しかし他人の気持ちはわからない。わからないのである。離婚調停中であることを隠していた純、執拗に嘘を嫌うバツイチのあかり、夫の鈍感さに嫌気が差す芙美、義母も夫もいい人だけれど孤独を抱える桜子。それぞれが自分自身に正直になればなるほど、言えないことも増えていく。これは当然のことなのだ。純との離婚を頑なに拒絶する公平、芙美の夫である拓也など共感しづらい人々も登場する。けれども彼らは、それぞれの人生を精一杯生きているのだ。否定することはできない。それぞれの人々が自分なりの選択をして自分を生きていくこと。それがどんなに不器用でも、生きていくことを肯定したいと思わされた。このメッセージは我々の生活に直に届く強いものであった。
このように映画『ハッピーアワー』は演出、映像、セリフやストーリーのどれをとっても巧みに私たちの人生との交わりを持ちやすく作られた、私たちの映画だった。我々の友人がそこにいるように、あかりが、桜子が、芙美が、純が、そこにいたのである。この映画を作り上げた監督を讃えたい。
はあ〜久々にレポート書いて疲れたのでブログにもあげておく…締め切りの日に書いたことしかない
おわり